「これ、ボランティアで手伝って!」
「ボランティア価格で頼みます!」
安易にボランティアという言葉を使って、物事を依頼してくる輩が時折いる。いや、結構いる。元来、何事にも対価を求める自分は、極めてこの言葉が苦手で、“ボランティア”という武器でぐいぐい攻められるのに嫌悪感を覚える。
ボランティアをネットなどで引いてみると、
主体性、自発性、無償性、共感力、そして社会に役に立つ活動など、そして「報酬を求めず、社会に貢献する活動」と出てくる。さらに、「社会課題の解決」、「地域への貢献」、これより成長と幸福感の向上へと、これでもかと続いていく。
性格の歪んだ自分が我が勝手に整理してみると、
我が活動の成果を出し、誰かの笑顔を生み出すことで心を満たし、実感として充足感を得るということなのだろう。
他者を助けること、他者が喜ぶことで感謝の意を求め、自分の立ち位置に正当性を見いだし、満足度と肯定感で悦に入りたいということ。
一方、自分には、評価されたい、褒められたい、尊敬されたい、そして対価がほしいという欲求が強くある。「してあげる」という押しつけ型に加え、感謝を求める人間だ。名誉、権力、お金、どれにも人一倍執着が強い。ただ、どれも得られていないのが悔しい。
・・・・・・・・・・・・
早朝、ゴミ出しい行く。カラスによって散乱するゴミをしかたなく片付ける。自分家のすぐそばだから。そして思うのは、このとき町内のだれかに見ていてほしいな~と邪な気持ちが生まれる。そして自治会の集まりのとき、「四宮さん、ごくろうさん。見てましたよ!」と、言われることに期待する。全く以てボランティア精神からほど遠い。
そんな自分だが、
唯一、ここ高知市民会議で真のボランティア活動家たちに出会い、この人たちの心に触れると、なんの抵抗もなく敬意をもって首を垂れてしまう。なぜだろう、後ろめたさがあるからだろう。
最後に、結構本音で書き綴ったが、反論したい方は多々いることだと思う。でも自分はそれに答えて、応える力がないので勘弁してほしい。
(追記)
近頃というか近年、高校生や大学生のボランティアが目立つ。学び舎という箱から飛び出し、社会経験を得ることでかつ他人と交流することで自分自身を見つけだす力を身につけているようだ。とてもよいことだと思う。いや、よいことなんだろう。自分が学生だった40年前には、ボランティアというのは当然なく、無報酬という活動はなかったし(と思う)、対価を得られない働きを考えたことがなかった。そういう自分が高知市民会議の理事をしている。時代は代わり、変わるものだ。
担当理事:四宮 成晴

