防災・福祉・医療が発達の度合いに比例して怒り・苦悩が拡散していくと感じるのは私だけだろうか。
昔は自然災害や病に対して人は無力で多くの命が奪われてきた。多くの悲しみはあったが、怒りはなかったように思う。
生老病死の言葉が表すように災害や病で人が死ぬ。悲しいけれども自然の摂理ととらえていた。
ところがテクノロジーの発展によって人が人の命を救う(コントロール)ことができるようになると「死は人の責任に転嫁」されるようになった。
想定が甘い・情報が遅れた・発見が遅れた・処置が適切でなかった。
死に対して怒りや憎悪が加わり、十分な対応ができなかった人は「あなたが殺した」かのように批判にさらされ苦悩が拡散されていく。どんな仕事においても100点の対応ができている方がむしろ珍しい。
100点を目指すことで神経をすり減らし、その重圧で真面目な人ほど心を病むストレス社会を生み出している。
漫画「ブラックジャック」で印象に残ったエピソードがある。
ブラックジャックの師であり命の恩人である本間丈太郎が老衰によって臨終を迎える。
ブラックジャックは緊急手術を行うが命を救うことはできなかった。
打ちひしがれるブラックジャックに霊となった本間丈太郎が語りかける。
「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね・・・」。
ここに命への向き合い方のヒントがあると思っていた。
命を大事にすると同時に命に謙虚になる姿勢も大事だ。
人間だけが特別な存在で寿命まで生きるのが当然。
これは命を大事にしているというよりは人間の傲慢さを示すものと私は考えていて、生物多様性と環境破壊にもつながっていると思う。
人の命が救われることで感謝の念が広まればいいのだが、それは当たり前となって目には見えないことが多く感謝は広まらず、それ以上に怒り・憎悪・苦悩が拡散していく。
「怒りは自分に盛る毒」「ストレスは万病の元」。
せっかくテクノロジーが進化したのに、人間にとって負の感情が拡散されるのは悲しいことだ。
一昔前は「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるように、「悲しみや怒りを持つことを望んでいないと思うよ」と周囲になだめる人がいた。
今はマスコミも周囲も再発防止の名のもとミスや加害者探しに夢中で怒りを煽る社会になってしまった。
「訴訟したら勝てますよ」「二度とこんなことが起きないように」。
これらも大事な考え方ではあるが、自分の中では腑に落ちない。(「腑に落ちるは2022年5月を参照」)。
被害者側の視点の一方で、悪意があるわけでなく、日常業務の中でのミスや選択した結果が悪い方に出たことで加害者の立場に立たされてしまう人の視点も必要だと思う。
再発防止策は業務を煩雑化する=枝葉の業務の増大=別のミスを誘発=ストレス増大による鬱の拡大と、
結果につながらず、社会全体として真逆の結果を招いていると感じている。
こうした100点からの減点社会や責任追及社会は地域の担い手の減少という深刻な結果にもつながる。
お断りしておくが、この考えはすでに悲しみの渦中にある人に向けてはいけないし批判につながってはいけない。普段から意識しておくことが重要なのだ。
テクノロジーの進化と同時に命への向き合い方が問われている時代がきているような気がする。
※「風の谷のナウシカ」には自然と人間。命の向き合い方の一つの方向性が示されているが、文字数オーバーとなったので、それは「良寛さんとナウシカに見る命の向き合い方」で(公開未定!)
理事 山﨑 水紀夫